あなたは才能に恵まれていたから出来たんです。ぼくは恵まれていないのでできませんでした。

あけましておめで怪文書。2020年も始まりましたね。よろしくお願いします。

今年はオリンピックがあるので楽しみにしています。

 

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『うるせえよ、才能に恵まれていないから出来たんじゃねえよ、お前が努力してないから出来てないんだよ』

 

ハーーーーーーーxa

うっせえ うっせえ うっせえわ あなたが思うより(努力できることは)才能です

 

出来ないことは逆立ちしても出来ないけど出来ないなりに楽しむことも大事だと思うの、その物事が自分にとって楽しく感じるのであれば。

すっごい遠回りになるかもしれない。だけれどもその出来ない物事に対しては別のアプローチが用意されていると私は考えている。そもそも自分にとっては物事でも他の者から見たらアプローチ、はたまた違うものに見えているのもよくある。

 

もちろん苦手なことも乗り越えたらその先の世界が明るく見える人にとっては見えるからやるんでしょう。だからといって自分が出来るとも限らないとは覚えておきましょう。乗り越えることが出来てもその先に見えた世界を明るく捉えられるとは限らない。

 

人に対して何かを発信しようとしている人にありがちなのは「努力すれば出来る」「努力に才能は関係ない」「行動しなければ何も始まらない」。努力できることも体質みたいなとこあるし努力が唯一才能が関係ないものとして上げられている現代、努力をできることが本当に"才能に恵まれている"と定義されるのではないかと考えている。

 

かといってタイトル通りの言説がまかり通るか?個人的な考えでは否。

 

自分の才能がないからといってわざわざ相手の士気を下げる必要もないと思う。

たまたまその分野に対しての己の個人的価値観で己の評価するラインに届かなかったということ。

 

当たり前に出来ること、当たり前に出来ない人も案外周りに潜んでるし今は発達障害精神疾患などでそこらへんが明るみになってきた。当たり前に出来ると思ってたことや無意識にやってることが他にとっては羨望の対象にも成り得れば、畏怖の対象、軽蔑の対象と成りえる。

 

私の苦手という価値基準に値する人に○○できてすごいね!って言うとえ?嫌味?って聞いてくる人種、とても幸せなんだなあ(○○をするという思考のリソースを違うことに割けるので)と思うと同時にとても不幸であると私は感じる。あくまでも個人的な価値観ではあるが。もしかしたら彼らの価値観の中で私が嫌味ったらしく言ってるように聞こえているかもしれない。彼らも私も独自の価値観を持った人間なので。

 

 

こんなくだらないことを22年間飽きずに考えてるのもつつはのエグい才能だと思う。難点としてはこのような思考に年中囚われていることくらいか、

 

明日も8時間労働です。明後日は6時間労働です。その次の日は5時間労働です。日曜日は5時間労働です。月曜日はまだスポット入れてないけど入れるか迷っています。他者(ヒト科ヒト)と己が唯一真の意味で共通していることはヒトとして生存していることくらいなのではないか。